師岡熊野神社本殿前の50段の石段の前に石の鳥居がありますが、これに掲げられている額が勅額です。江戸時代寛政十年(1798年)に当時の氏子の人々によって奉納されたものです。
この石鳥居には「関東隋一大霊験所熊埜宮」と記されています。社伝にはこの額を書かれたのは、第五十八代光孝天皇(仁和元年 885年)で、平安時代の初め熊野神社がここ師岡に天皇の勅願所として造営された時に、その完成を祝い下賜されたと社伝に書いてあるそうです。
しかしその由緒ある勅額は関東大震災(大正12年1923年)の折割れてしまい、今掲げられている額はその写しとなっているものだそうです。 勅額とは天皇が国内の寺院に与える直筆の書で記された寺額のことをいいます。

勅願所とは天皇の勅願で建立された寺、もしくは論旨によって勅願寺となった寺。勅命によって国家鎮護・玉体安穏を祈願した寺をいいます。
この師岡熊野神社は仁和元年(885)光孝天皇が勅使六条中納言藤原有房卿を遣わして社殿を造営させた勅願所です。その後宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇の四代にわたり天皇家の勅願所となりました。(平安時代)
この勅願所の石柱は勅額の架かっている石鳥居から石段を上り社殿に向かう途中に建っています。
横浜市神奈川区にある子安足洗川は藤原有房卿が勅使として関東に下ったとき、足を洗った川で、大口坂は、有房卿が、この地で装束を改め大口袴を着用されたことに由来すると言われております。「神奈川歴史の道」には子安足洗川は浦島太郎が足を洗った川と記されています。
同じく神奈川区西寺尾字面滝は供奉者が顔を清めた滝であり、鐙宮(阿府神社)は馬の鐙(あぶみ)を納めた所で、式坂は参向儀式が行われた場所などと昔を偲ぶ地名が残っております。
勅額のある石鳥居をくぐると、石段前にもう一つ注連縄の張られた石柱があります。これが「注連柱」と呼ばれる石柱で、大正8年(1919)9月に奉納されました。「柱銘」には「当所鈴木伊三郎・東京芝区二本榎 川合梅子奉納」と記されています。
この川合梅子さんはどのようにしてこの注連柱を奉納するほどの財を蓄えたのでしょう? そして東京の芝に住んでいて、神奈川の師岡熊野神社に奉納することを思いついたのでしょう?師岡で生まれ、芝に嫁いだのかしら?など下世話な想像をしてしまいます。
「注連柱」は鳥居の前身にあたるものだそうです。