「い・の・ち の池」

みくまの物語いの池

師岡熊野神社の境内に「い」の池、「の」の池があります。「ち」の池は埋められて大曽根第三公園になってしまいましたが、古くはこの三つの池を合わせて「いのち」の池と呼んでいました。

いの池

    

みくまの物語水神

「い」の池は熊野神社の石段の前、道路をはさんだ場所にあり、名前のようにひらがなの「い」の形をした池です。昔は農業用灌漑用水として利用されていたため池だったようです。 「い」の池の説明には次のように記されていました。

昔からこの池をさらうと雨が降ると伝えられ、十二の龍頭を使っての「雨乞神事」もこの池で行われました。龍頭は博物館にあります。

承安4年(平安時代1174年)諸国が旱魃(かんばつ)で難儀した折、高倉天皇は当熊野神社に勅使を遣わし、雨を降らせるよう祈るように命ぜられました。

このとき熊野神社に参篭していた、源義信の子「延朗」(延朗上人)は直ちに龍頭を彫り八大龍王を勧請しました。すると三日三晩大雨が降りやまなかった。延朗は大般若六百巻を書写し熊埜宮に奉納しました。

また、「い」の池には片目の鯉の伝説があります。昔、昔、熊野神社の権現様がこの地の悪者を退治した時に、弓矢で片目を射られてしまいました。その時に「い」の池にすむ鯉がその美しい目を権現様のために差し出したといわれています。

以来、この「い」の池に住んでいる鯉はみな片目であると伝えられているそうです。

今は寒いせいでしょうか鯉の姿は見えず、鴨が二つがい遊んでいるだけでした。「いの池一帯は横浜市地域史跡に登録されております。(昭和63年11月1日登録)

弁天様

みくまの物語ほこら

「い」の池のそばに弁天様のほこらがあります。弁財天は七福神の中の女性の神様で、音楽や知恵を司る神様(産業文学芸能神) として信仰されてきました。 祭神は「市杵島姫神」(いちきしまひめのかみ)です。

みくまの物語弁天

弁財天はもともとはインド神話にでてくる河川の神様だそうです。したがって水辺に祀られており、「い」の池の弁天様では毎年八月一日に弁財天例祭がおこなわれます。 

石灯籠

みくまの物語石灯籠

「い」の池のほとりに「江戸名所図絵」にも載っている石灯籠が昔のままの位置に建っております。灯篭には「寛政癸丑十二月吉日 世話人庄兵衛 新助」などの文字が刻まれているそうですが、今は彫りがうすくなって私の目では判読しかねました。寛政五年(1793)に奉納されたものだそうです。 

力石

みくまの物語力石

「い」の池 のほとり、石灯籠の脇に残っている力石です。昔、神社の境内で相撲大会や力比べが行われていた名残りの力石・さし石で「四十五貫目 樽村清兵衛・常五郎」などと刻まれています。これも大分風化しています。四十五貫とは約168キロです。 

「の」の池

みくまの物語のの池3

「の」の池は師岡熊野神社本殿の裏山にあります。周りに注連縄がはられ、神域になっています。この池の水はどんな干天でも涸れることがなく、大雨でも水があふれることもなく、水を湛えていて、禅浄水といわれているそうです。

観応二年(1351年)の落雷による火災で熊野神社社殿が焼失した時、神宝・神体等をこの「の」の池に投げ入れて消失を免れて無事だったそうです。おかげで現在も残っています。また一月十四日に行われる「筒粥神事」はこの池の水を使って行われます。 

みくまの物語のの池2

「ち」の池

もとはため池で農業用水に利用されていましたが、昭和44年(1969)に埋められて大曽根第三公園や宅地になっています。

「ち」の池伝説では妊婦が通りかかると、池に引き込まれるとか、 水争いがありけが人の血で池が赤く染まったとか、池にはえているマコモが、秋になると赤みを帯びて水が赤く見えたとか言われたそうです。

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